2011年、実感したのは「閉塞感」?

『閉塞』=とじふさぐこと。とざされてふさがること。(岩波国語辞典より)

2011年もあと2週間足らずで終わろうとしている。
歳をとったせいなのか、何かほかに理由があるのかどうかは分からないが、とにかく時が経つのが早いと痛感する昨今である。
年の瀬を感じる風物詩に「ユーキャン流行語大賞」と「漢能検の今年を表す漢字一文字」がある。前者は「なでしこジャパン」、後者は「絆」だった。
「なでしこジャパン」は震災後の日本全体を覆う暗い空気に一縷の光明や希望をもたらした2011年唯一といってもいいほどの快挙だった。「絆」は、まさに震災復旧・復興のキーワードだし、日本人が持っているそもそもの国民性だから(のはず)こちらも納得した。

電気自動車を中心とするスマートモビリティ社会を推進する立場としては、希望的な意味合いを込めて言わせてもらえれば、流行語(というより実態)は「維新」であってほしいし、漢字一文字は「電」であってほしい。

橋下徹新大阪市長は、大阪維新の会のhpで大阪都構想は地方分権のシンボルとした上で、「地方分権、地域主権の大きな流れに照らした場合、都構想はどう位置づけられるか。都構想によって国から地方への権限移譲の”受け皿能力”が高まる。ひいては道州制(関西州)の実現に向けた地ならしともなる」と説く。逆に「大阪都のような巨大な自治体ができると住民から遠い存在になる。分権に反する」という反論に対し、「都構想を単なる府市の統合ととらえることによる誤解だ。いったん統合はするが同時に水道や地下鉄、バスなどの事業部門は別法人化、民営化する。残りの市役所機能も特別区に移譲する。大阪都は東京都と異なり現業部門を抱え込まない。巨大な組織にはなりえない」としている。(出典:橋下徹オフィシャルサイト)

言葉だけの政治には退場勧告!

「維新」という言葉はもちろん明治維新に端を発しているが、意味は「改革」と同義語である。さらに「みな新しくなること」とある。
先日の大阪ダブル選挙で圧勝した大阪維新の会に象徴される「実行が伴う改革(口先だけではないという意味)」を指すものと想像する。橋下新大阪市長(松井新大阪府知事の存在も無視できないのだが、ここでは橋下さんで統一させてもらう)の発言の端々に窺える政策提言の根幹は、ほぼ公務員制度改革をベースとした「仕組みの改革」の一点に絞られるだろう。これを成し得ない限り日本の将来もない、とまでも言い切っている。

それはそうだろう。現政権も含めこの20数年間、ほとんどの政権を見ても分かるように、公務員制度改革(行革や地方分権も事実上同じ)をどの政権も公約しておきながら、すべては絵に描いたもち、又は言うだけで終わっている。理由は「できると思ったけど、官僚の方が一枚も二枚もウワテ」だったからである。
その結果が、閉塞感を漂わすことになった年金・医療・介護などの社会保障であり、TPPであり、農業問題であり、ダムであり、二重行政であり、税制であり、公務員住宅であり、格差であり、情報隠蔽・・・等々。そのトドメの結果こそ、3.11以後の震災と原発被災者対応なのである。

公務員が悪いのではない、仕組みに胡坐をかくことが悪いのだ

前述した個々の課題はきわめて重要なことだが、そこにとんでもないムダなり矛盾なり時代錯誤が内包されているとしたら、民間企業ならばとっとと是正するはずなのに、今の行政の仕組みだと「現法律に則る独自のロジックと力学」が働くためか、いわゆる市民感覚で言うところの物事が一向に進まない。だから一度壊してリセットしましょうよ、というのが橋下維新とそれを後押しした大阪多数派府市民の民意である。

一地方の行政と国政がごっちゃになっているのでは? とのご指摘を受けるかもしれない。しかしこう考えてほしい。もはや一地方といえどもヨーロッパの一国と同程度のGDPを有する時代にあって、旧来の中央集権体制自体を守らねばならない理由などほとんど存在しない、という発想から始めてもいい時期がとっくにきている。

それぞれの地方が、それぞれのスペシャリティを、それぞれの権限と財源で、それぞれの市民の生活を守っていけばいい時代なのである。それらを総称して「地方分権」と言っているのだが、賛否や方法論だけが先行して遅々として進んでいない。
そりゃそうだ。何らかの力学が働いて、中央の権限を温存しようとすれば、その時点ですでに1ミリたりともことは進まない。そこに楔を打とうとしているのが橋下維新なのである。要は、地方がやるべき、ごく当たり前なことを当たり前な発想で当たり前にやっていこう、というだけのことなのだが・・・・。

超小型モビリティは、地域独自のロコ仕様でいい!

EVにも「地方分権という維新」は大いに関係してくる。例えばレギュレーション(いわゆる運送車両法や道交法)は国全体レベルで遵守しなければならない。しかし実態としては一地方の実情に見合ったレギュレーションでも十分機能、通用するコトやモノがたくさんあるはず。が、現状の仕組みだと何から何まで全国一律でなければならない。
県条例(政令指定都市は都道府県と同格)など地方自治体独自の権限は地方自治法第96条に定められているように、条例を設け又は改廃することとあるが、法律又はこれに基づく政令に規定するものを除く、と明記されている。つまり時代に見合った法改正が実現されない限り、実質的な地方分権など夢の又夢物語なのである。

例えば人口5万人ほどの都市が、独自の判断でスマートEVコミュニティを構想したとしよう。そこに求められるモビリティの合格点が50点で十分だとしても、国のルールを絶対遵守というだけで100点を求められるとしたら、利用者にとっては倍のコストを強いられることになるし、生産者は倍の労力を費やすことになる。そういうことを非効率というのではないだろうか。
仮に地方の権限(もちろんリスクと責任も)でそれらがすべて決められるとしたら、その地方の雇用はもちろん、大手も中小の企業にも参入機会という活性化とビジネスチャンスが少なからず生まれるはずなのに、である。

栃木県が目指すEV・PHVタウンのイメージ
栃木県ではEV・PHVの本格普及に向けた実証実験のためのモデル事業に取り組んでいる。県内の自然環境などの地域特性を活かした4つのモデル事業と近い将来の電気自動車の使われ方を見据えたシステムを構築する。県単位では、他にも神奈川、福岡、熊本、静岡などが独自の構想を立て展開している。(出典:栃木県)

「電」に込めた意欲、意識、意味

「電」は、単に電気自動車を指すだけではない。原発事故以来、今ほど発電、送電、変電、蓄電などの言葉が報道紙面を舞ったことはなかっただろう。誰もが当たり前のように電気を使い、また当たり前のように電気代を払う。それがどれほど適正かどうかの検証もろくにせずにである。悲しいことではあるが、ほとんどの生活者は原発事故が起きて初めてことの重大さを知ることになる。

電気自動車に限らず、生活面でも事業面でも電気、電力は不可欠エネルギー、インフラであることは当たり前すぎることなので語る必要を見ない。
普通に考えれば、電力供給自体は、

  1. 安定的が望ましい。
  2. 安価であることが望ましい。
  3. 絶対安全。危険回避性が高く、環境対応性を持つことが望ましい。

その当たり前なことを実現させることこそ誰もが求める究極の目標なのではなかろうか。
だとすると、やはり中央、地方の関係と同様に一度リセットし直して取り組むべきテーマなのかもしれない。
感情面で言えば、原発は恐いだろうし、電力会社の対応にも首をかしげるだろう。心情面で言えば原発や化石燃料に依存しない風力やソーラーなどの再生可能エネルギーシステムに目が向くだろうし、発送電分離などの電力自由化も考慮、検証したいだろう。
それらはすべて2012年以降の大きな課題である。「維新」とは、他人任せだけにしない、生活者一人一人の責任をも問うことなのである。

最後に。橋下徹氏と堺屋太一氏との共著「体制維新 大阪都」によれば、「大阪が変われば、日本の未来が変わる」ということだが、どうとるかはその人次第だ。かつて「東京から日本を変える」というのもあったが、変わらなければならない時がとうに過ぎたことだけは、どうやら間違いない。そしてそれが叶わない限り「閉塞感」が払拭されることはない。

12月19日、橋下新大阪市長が大阪市役所に初登庁した。少なくとも国の為政者よりもはるかに高く注目される理由は、ひとえに「閉塞感打破」への期待感なのである。